ミュージカル

天翔ける風に

〜野田秀樹「贋作・罪と罰」より〜

公演中、公演後に感想伝言板にわたしが書いたミーハーじゃない真面目な感想(^^;です。ネタばれあります。


三条英 (2001/07/19)

三条英を見ていると、自分が20歳そこそこだった頃を思い出す。「贋作・罪と罰」をビデオで観たときは、そんな風に自分に近づけて観るような見方はしなかった。もちろん生の舞台を同じ空間で観ているというのもあるでしょうけれど、やはり舞台の作り手が女性(謝先生のこと)であることが大きいのではないかと思います。
わたしは観劇前にあんまり予習はしないほうで、だいぶ前に「贋作・罪と罰」のビデオは見たものの、今回パンフもろくに読まず観劇に臨みました。そして、パンフの野田さんのメッセージも謝先生の挨拶文もずいぶんとあとになって読んだのですが、自分がそんな気持ちになるのも、ああ……そうだよねと共感、納得できたのでした。

20歳過ぎだったあの頃は世の中が理不尽なことだらけに思えたし、許せないことがたくさんあった。しかし、英のように潔くも強くも優秀でもないわたしは、何も踏み越えることなどできなかった。
あれから十年以上が過ぎ、今も同じように悩みは尽きず迷いながら生きているけれど、妥協することを覚え、いろんなことへのこだわりを捨て、良く言えば人間が丸くなり、悪く言えば流されて生きるようになった。
三条英を見ていると、あのころの屈折していながらもまっすぐな(と今は思う)自分を思いだし、なんとなく…つらい。

…まあ個人的なことはこのへんで置いておいて…舞台の感想、思い付くままにいきます。ネタばれありありです。

英が坂本竜馬を殺すために、溜水が用意した彼の隠れ家(おみつが殺された後、空家になっているあの家ですね)に行き、才谷と相対するところ、あそこの音楽が好き。緊迫感があり、また英の心情を表すがごとく心が引き裂かれるように切ない。(今回、弦楽器の音が効果的に使われてるなって思うことが多いです。)
そして剣を合わせるふたりの立ち回り、叫び。
自分を守るために坂本を殺す。老婆とおつばを殺したことを罪とは思っていない。たとえ自分が自首するとしてもそれはそのほうが罪が軽くなるからよ。今ほど強く自分が正しかったと思うことはないわ!と英は叫ぶ。けれども英は坂本=才谷を殺すことはできなかった。

その同じとき、智は溜水に騙され空家に連れ込まれます。今まで自分で決めることなどなく誰かのために犠牲になることを受け入れひたすら受身だった智は、ここではじめて自分で自分の心を決めます。この人を愛していない、愛は犠牲ではない。そして自らを守るために溜水を殺す。2発目の銃弾が不発でなかったら、きっと殺していた。

このふたつの殺人未遂がNODA MAP「贋作・罪と罰」では同時に同じ場所で表現されます。(どうやって?って思う人はなんとかしてビデオ観てください。)
言葉でうまく表現するのは難しいけれど、英と智、この対照的な性格の姉妹の、同じ部分みたいなものが感じられる場面なのではないかと思ったりします。人は誰でも何かの拍子に暗闇を見ることもあり、また反対に暗闇から光を見ることもある。

英にとっては才谷の存在が光そのものだった。英が問う「わたしが待つの?」という言葉に「おまえが牢の中で俺を待つんじゃない。俺が牢の外でお前を待ち続けるんだ」と才谷は答えます。こんなこと言われたら、かたくなな心も崩れますよね、ホント。才谷によって光の方角へ導かれた英は、何かが落ちたように泣き崩れ才谷の胸で抱きしめられます。

「人殺しを抱きしめる気持ちってどう?」「人殺しってあったかいんだなぁ」
ここの英は本当に可憐に見えました。
英役の香寿たつきさんの舞台、わたしは何度か宝塚で観たことがありますが、(「凱旋門」「ゼンダ城の虜」、あと、タイトル忘れたけど映画界を舞台にした話で脚本家の役をやってたやつとか…)渋いおじさんの役か、憎々しげな敵役というような、あまり宝塚的でない、演技力が必要な難しそうな役が多かったという印象です。でもって、あのおっさんくさかった(失礼な表現お許しを)人が、これほど可憐で可愛い女性だなんて…と心底驚きました。

ぼろぼろ泣いていた英がすっくと立ち上がり「才谷、わたしちょっと行って来る」って言いますね。そして「俺もちょっと行って来る。将軍をぬかづかせ、大政を奉還させてくる」と言う才谷に、英は「生きてろよ、わたしのかなたで」と言います。彼の方角と書いて彼方(かなた)と読む。この美しい言葉の響き・・・。

英が大地に接吻をして「わたしが殺しました」という場面は、清々しいほどに透明感に溢れていますね。この清々しさはタカラジェンヌならではのものなのかもしれませんね。

牢に入った英が上手側で才谷に対する手紙を語る独白の場面、下手側では才谷=坂本竜馬が京都で暗殺される場面が繰り広げられますよね。坂本は切られて本舞台の中央付近で倒れますが、そのとき、上手に向って手を伸ばします。センターで観たときにはそうと思わなかったのですが、上手の端のほうで観たときに、あれは英に向って手を伸ばしているのだとはっきりと感じられていっそう切なく、その後の英の独白に号泣してしまいました。 「才谷、元気ですか?」もうこれだけでだめでしたね。前が見えなくなるくらい涙でした。
幕が降りる直前の英の表情が本当に美しく、今思い出しても泣けます…。


溜水石右衛門(2001/07/25)

神戸と東京合わせて片手じゃ足りない(両手なら足りるけど)回数を観たわたしですが、福井さんの溜水は公演の最初の頃はとらえどころのない存在で、印象が薄い、福井さんは溜水をやるにはいい男すぎるのかなぁ?と感じていたのですが、だんだん存在感が増していきました。
これは福井さんがそうなったのか、わたしの観方がそうなったのかはわかりません。

溜水の智に対する執着について、そしてなぜ溜水は自殺したかについてわたしの感じ方を書いてみます。
溜水はある種の天才で(少なくとも溜水は自分ではそう思っているのでは…)、自らが完璧でないと存在できないようなそういうあやうい人だったのではないかと感じました。勤皇派と幕府の間を暗躍し、歴史を自らの手であやつっているようなそんな自分を天才だと思っている、そういう人ではないかと。自己陶酔型というか。
自分が望めばどんなものでも手に入る。今まで挫折というものを感じたことがなかったのではと。わたしが思うに、智という人をそこまで好きだったというよりは、彼にとってはひとつのピースだったのではないかと思います。必ず手に入るはずの。
そして智に拒否されたことでできたほころびを自分で修復することができなかったのではないかとそう思いました。そして…紙一重なところのある溜水はあの場面で智に殺されるのも陶酔であったんじゃないかと。
でも智は殺してくれなかった。だから自分で歴史を道連れに死んだ。絶望ではなく、最後まで自分に酔っていたとわたしは思います。だからこそあの場所で自殺した。才谷が志士達を止めなければ歴史を動かすきっかけとなるはずの銃声でしたからね。あれは。ヤマガタ率いる勤皇の志士達が結局将軍を倒すことなどできなかったとしても、何かが起こり多くの血が流れることは必至だったでしょうから。

まあ、実際のところはわかりませんけれど。観る人によっていろんな解釈があってもいいですよね。

あの智と溜水が対峙する場面は、二人の緊迫感に圧倒され毎回ホントに固唾を飲んで観ていました。わたしは何度か観るうちに溜水の哀れさ(という表現がいいのかどうかはわかりませんが)に涙するようになってしまいました。3度目くらいからかな。はっきりとそう感じたのは。自分でも不思議なんですが。
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